2016年03月17日

会社行事を創るということ

「会社行事への協力」ということを考える機会がありました。

会社のソフトボール大会や忘年会、協力業者会や花見など様々ありますが、そんな大きなものだけでなく、例えば先日のメーカーの工場見学や新商品発表会など実にたくさんあります。

今は会社行事を創る側になることが多いんですが、そうだなぁ、昔会社員だった時は行事ごとがお膳立てされたところに参加する、というのが専らだったと。

例えば前の会社でのソフトボール大会。開会式から始まりますが「集合ー!」と言われ整列していた自分。チーム発表を聞き、それに従って試合をし、楽しい時間を過ごし親睦を深めた。

一概に言えると思うのですが、会社行事ってやるまでは「ちょっとしんどいなぁ的要素」があるんですが、実際やったら楽しいんです。

ワイワイ言ってプレーしている私たちを尻目に、総務課長が走り回っていたあの光景。

大変だなぁと気づいてはいたが、私はそれだけ。係を担当してくれていた人たちがプログラムをたて、球場を並んで予約し、道具を揃え、整備してくれ、弁当やお茶を配ってくれ、ゴミを捨ててくれたから私たちは「楽しかった」だけで1日を終われた。

そして、何もしていないくせに「ここはこうやった」「この方が」と文句までは言いませんが軽口を叩いていた。未熟だった。


今はどうだろう。今は創る側が多いから事前準備が大変です。

創業時は例えば花見だと、弁当の予約から場所の選定、参加者名簿の作成まで自分でしていたのが、今は実務はその能力の高い社員たちに任せられているので負担は減ったが、それでもお膳立てのされた環境に「はいどうぞ」ではないのでやることは意外とあります。

しかし、自分で企画立案実行するようになって、行事ごとが楽しいだけのものではなくなった。当然、「ちょっとしんどいなぁ的要素」は0%になった。何より周りの参加者が楽しんでくれている、行事が無事に進行していることへの喜びを感じることができるようになりました。

何回かしていくうちに行事を企画し、実行していくことから知らぬ間に自分の大局観が養われていることに気づいたし、物事を体系的に表現することが多くの人たちで行動するときにいかに大切なことであるかを知った。

成長できた。


もっとも、実行側ですから不満の声は直接的には聞かないにせよ耳には入ってくる。お膳立てされた場にポンっと参加した人はいろんなことを言う。でも、私も口に出したことはある。そして、全員が100%満足する集団行動など無いのだからやむをえない。悲しいかな。

しかし、腹の立つこともありますが、でも創る側は「楽しい」だけで終わっていない。

その腹の立つようなことも創る過程においてもちょこちょこ出てくる。困難にも遭遇する。当たり前ですが、全て打破しているから行事が完成する。

「楽しい」だけで終わっているのとそういうことがありながらも創る側にいるのとではどちらが「喜び」というものを得られる、より大きく得られるのかは一目瞭然であります。

行事が無事に終わった時の安堵感は創った人間にしか味わえない。


行事ごとは創る側にならなければならない。なれなくとも進んでなろうとしなければならない。与えるということができた時、やはりその喜びは全然違うし、成長できるから。

創る側になれなくても協力は惜しまない方がいい。惜しまない方が喜びを分かち合えるから。悲しいかな惜しむ人ほど与えられている自分の仕事で結果は出ない。考え方なんです。


今、例えばうちの社員で、うちの社員であるのだからうちの会社が求める社員旅行をサラッと企画立案し、組織ですからその案が概(おおむ)ね受理されることがイメージできる者はどこに行っても通用すると思う。そこにはいろんな要素や能力、気づきや感性が求められるから。会社はそんな人が欲しいんです。会社をしてわかった。


行事ごとは創る側が絶対にプラスでしょう!















posted by orangeknight at 18:23
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