2019年07月28日

障がい者の当選から考える

 
 
参院選で重度の障がいを持った方が2名当選しました。

 
これに私は衝撃を受けました。正直なところ感動ではありません。衝撃です。

 
障がい者自身が注目され、その姿に感銘を受けての集票とはまた違うのでそのような感想なのですが、まるで国会に爆弾を打ち込んだように見えました。

 
昔と違い、世の中は社会的弱者を擁護する風潮にあります。私42歳ですが、我々の祖父母の世代の感覚と父母の世代、そして我々、また20歳代の感覚は異なるものであります。

 
世間体を気にして誰しも発言しますが、祖父母の世代では障がいを持った方々をおおむね偏見の目で見るのがスタンダードであったと私は認識しています。

 
それが医療の進歩とともに、昔なら死んでいた方々が生き残れる社会になり、時代は代わり出した。

 
しかし、私には私も含めて多くの方が優等生の発言として「障がい者に住みよい社会を」としていますが、本音の部分では様々な想いを持ち合わせているのが現状のように感じます。

 
システムと言いますか、ハードが先行し、ソフトが付いてきていないのがスタンダードな我々の今ではないでしょうか。

 
なので衝撃を受けたのです。

 
朝日などのマスコミは画期的なように報道します。問題発言とされるかもしれませんが私は「活動ができるのか」とまず思ったのです。

 
議員の仕事の半分が自分がしたいことの実現であるならば、半分は地元からの要望、嘆願の類。今回の場合ならば政党、政治団体の政策実現であるでしょうから、精力的に仕事ができるのかと。いや、まさか報道されるだけでその効果があるのかと。

 
彼ら自身も自分がピエロになることでこの国が変化したらと理解しての行動でしょうし、絵を描く人はここまでの行動に出るのかと驚くのです。

 
 
何事も歴史がありまして、歴史に学ぶのが正しいと思うのですが歴史的に類をみないこともあります。それくらい今回の当選は大きいことで、実弾が撃ち込まれたのではないでしょうか。

 
歴史は時代の勝者が記録し作ってきた。

 
今回の当選がその記録に残っていくのなら、今後我々は心から障がい者の存在を、存在意義を認めているという考えに変化するでしょう。

今のように彼らへの想いが表面上のものであるがまま「正しい答え」として彼らの存在を認めた体をとるのなら、少しだけ国会の規定が変化され葬られるでしょう。

 
時代はどのように変わっていくのでしょう。

 
その時代のどっぷり中心にいる世代でありますので、なるようになる、ではない生き方をしたいと思うのです。

 
 
性的マイノリティも同じ。

認められるべきかもしれないが、心の中で大きな違和感のある問題。

こういうのをきちんと本年で語れる社会にまずしたいですし、それをキレイごとだけ言って攻撃し潰してしまう社会には絶対にしたくないといつも考えているのであります。

 
キレイごとだけでない議論を。

 
日曜日なのでちょっと長くなりました。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by orangeknight at 12:22
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