話をしっかりすればお互いにわかり合える。
若い頃はそんなふうに思っていました。
コミュニケーションこそ重要で、話を密に繰り返せば、人と人はお互いに理解し合えると。
「話せば分かる」か。
確か5・15事件で、犬養毅が言ったとされている有名な言葉。
官邸に押し入ってきた青年将校にそう語りかけ、直後暗殺された、日本史を転換させた大きな出来事。
このとき、犬養は武力ではなく、対話でという意味で言ったと思うので、またニュアンスが違いますが、話をしても分からないことってありますよね。
話をいくらしても、理解し合えないことってある。
それは、近い人、遠い人、距離は関係ない。
わかり合える人はある程度の話で通じる。
逆に、話をいくらしても、どれだけコミュニケーションをとっても、理解し合えない人っている。
生まれた国、生まれた時代、育った環境、受けた教育、10代で経験してきた事。これらが大きく大きく立ちはだかる。
若い頃は、いや、若いと言ってもほんの数年前までか。私は前述のように、人と人はわかり合えると考えていた。
でも現在は違う。
わかり合えない人もいるし、事もある。
そんなとき、必要以上にわかり合おうとする必要はない。
そんなときに大切なのは、わかり合おうとする自分の気持ちへの諦め。いや、諦めと言ったらネガティヴな印象があるが、そうではなく、積極的な諦め。「無理やな」と。
そして「そういう考えの人もいるし、そういう人なのだろう」と認める事だと思っている。
そこで、これが正しいと相手を否定してもしょうがないし、これ以上、いくら親しくなろうとしても徒労に終わるだけ。
そうなのだから、そんな存在も認め、いくらか距離をとることだと考える。
そうだな、人と人の距離って、みんなお互いに違い、その距離感って大切である。
今の距離感だから上手くいっている人間関係って往々にしてあるし、今、それで良い感じだからと、より接近することによって、かえって悪くなる人間関係もある。
もちろん良くなる事もあるが、上手くいっているようなときは、悪くなる方が圧倒的に多いというのが肌感である。
朝から書いていたら長くなってきたが、要は、話をしっかりしてわかり合える人とはわかり合い、それでもわかり合えない人とは、その存在を認め、それ以上わかり合おうなんてしないことだ。
分かるものは分かるし、分からないものは分からない。
そこに注力せず、諦める。そんなものだと。
話をしてもわかり合えないことは普通にある。
みんないろいろ。人生いろいろ。
posted by 07:22