2016年08月02日

病気に勝つということの意義とは

横綱の千代の富士がお亡くなりになり、どの新聞にも書いていることがあります。

「横綱は強かったけど病気には勝てなかった」

 
私は38歳にしては死生観を持っている方だと自分では思っているんですが、この「病気に勝つ、負ける」という表現に対しては心のそこからそういうことかと理解ができていません。

そもそも病気に勝つ。命を脅かすくらいの病気に対して人はそれに打ち勝たねばならないのか。

それは宿命ではないのか。

付き合っていくことこそが最大の手段ではないのか。

命を脅かさない、また治るような病気や怪我に関してはその困難を早々に打破せねばいけないであろう。

次があるから。良い意味でも悪い意味でも。

しかし、それがどうしようもない大きな病、例えば末期の癌のようなものの場合、人はそれに対して勝とうとせねばならないのであろうか。

人生の大きな渦の中にあって、それは私は神様から受けた試練であり、勝とうが負けようがそれに対する姿勢を見られているのではないかというふうに思うのです。

もっとも、打ち勝つということは大切だと思う。ふさぎこんでいても前には進まない。しかし、受け入れて共生することは、そしてそれにより死に至ることは決して負けたわけではないでしょう。

病に負けたというのは何か薄い表現であり、その過程を一切認めないという尺度が存在しているようでどうも馴染めない。

人は生まれたくて生まれてきたのではない。これは私は会社で面接の時によく話をします。

生まれたかったわけではありませんが、生まれさせられた。

これを幸せと感じるか不幸と感じるかは本人と親がすべてでしょうが、原則論として人は生まれさせられた。

生まれてきてから人生を終えるまで怪我をしたり、失恋したり、受験に失敗したりといろんなことが起こる。

しかし、その間には嬉しいことも幸せなこともたくさん起こる。

でも神様から与えられる試練は年をとるごとに大きくなる。

それを克服してまた成長させてもらう。

そして人生をかけた試練をいただく。

実際、そうなった時にそういう風に感じることのできる精神力をつけるためには、死というものを考えて生きないといけない。

 
大きな病気で死ぬ人は負けたわけではないと私は思う。

それにいかに挑んだかが大切であり、人生あらゆるところで結果が全てと終わらされるものでありますが、人の命というものは、生まれさせられてから死ぬ時まで、自由にならないものではないかと思うのです。

 
だからそこの結果に勝ち、負けは馴染まないと思うのです。
posted by orangeknight at 13:49
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