社長の日記「つみかさね」

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2014年05月20日

「昨夜(ゆうべ)のカレー、明日(あした)のパン」を読んで

「昨夜(ゆうべ)のカレー、明日(あした)のパン」木皿 泉著を読みました。

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死をテーマにした話ではありましたが深刻なものではなく、ごく普通の日常はとてもありがたいものである、またその描写から毎日の普通の生活ってかけがいのないものであるし、求めてもすぐには得られるものではないのかなとも感じました。

嫁ぎ先で夫「一樹」が亡くなった後も「ギフ」こと義理の父と暮らす「テツコ」。

私はこの本を読んでいてとても彼女に魅力を感じました。

テツコの空気感が良かった。決して無理することなく、爽やかにギフとの生活を普通におくる毎日。


お母さんに「明日のパンを買いに行って」と頼まれる日常は生きていないと起こらない。

庭の大きな銀杏の木はその家にお母さんが嫁いできたのも、そこに息子が生まれたのも、そしてお母さんが死んだのも全部みていた。

その息子が結婚し、若くして病気で亡くなり、そこに残されたテツコとギフが生活するのもずーっとみている。

独特のゆっくりとながれる時間の描写が、人間の生きていくということをみごとに表現し、普段せかせかしている私はあたたかい、ほのぼのとした気持ちをいただきました。















posted by orangeknight at 06:12

2014年05月19日

「結果」というものについて

私は会社でよく「結果」について話をします。

最も多いのは「結果が全てですよ」という類いの話です。

私は一生懸命に働くとか、頑張るというのはスタートラインであり、それについては評価に値しないと考えています。

それができない人とは一緒に仕事はしたくありませんし、その事に対して評価を求めるアマちゃんは私とは一緒に仕事はできないと思います。


営業職において、一つの結果は受注です。

その受注をいただくにあたり、どれくらいの努力をし、全力をつくしたことは私は営業出身なので痛いほど分かります。

その人にとってこれでもかというくらい知恵をしぼらせ、ベストな状態とチョイスで商談にのぞみ、すごい労力を使いプレゼンしても契約をいただけないと何の意味もありません。

冷たいように聞こえますが、それはむしろ結果論として時間のロスであったと言えると思います。

そこから生まれた繋がりや経験値のことを言っているのではありません。

プロは過程を評価してはいけませんし、されているうちは認められていないと考えたほうが正しいと思います。


ただ、私は成果至上主義ではありません。

ここのところがややこしいところですが、私は結果至上主義であり、その結果は形としてあらわれていないようなものも含み、成果として形となったもののみを認めているのではありません。

例えば会社で「勤続年数が長い」これは結果であると思います。私は成果を人並みにしか出さなくても勤続年数が長いという人は評価しています。成果を多く出したうえで勤続年数が長ければなお良いですが、長く勤めてくれているからにはいろんな結果を出してくれているはずなので軽視はしたくないのです。

成果主義より結果主義という考えになったのは結果からは成果と違い信用が誕生するからです。

信用や信頼は結果でしか得られません。

結果の積み重ねが信用や信頼となります。結果を出し続ける人には細かいことは言いません。だって言わなくても結果を出してくれるという信用がありますから。

また結果というのは成果という表面的なものではなく、言うなれば立体的なもののような気もします。


新入社員が「自信が無いんです」というようなことを言っているのをよく耳にします。

当たり前です。自信は結果の連続で形成されるものであって最初からあるはずがありませんし、あったらおかしいです。

たまに最初から自信満々の人がいますが、私はそれはそれで好きなんですが、本来自信は結果からしか得られないものであると私は思います。

新入社員は不安と葛藤しながら毎日を戦えば良いのです。

そこからいろんな過程を学び、成長し、また出来ないことや失敗を叱られ、助けられ、傷ついて優しさを覚えます。

本気で叱られたことが無い人や、大きく傷ついたことがない人は本当の優しさは知りません。


一人前に育てたかったら過程を評価してはいけません。そこは優しさでも育成でもなんでもなくただリーダーや上司が部下に嫌われたくないという一心であると私は考えます。

甘えた部下に育てるのも上司、一人前にしてやるのも上司、常に部下は上司を選べません。


今日も長くなりましたが「結果が全て」というのは中、長期的にみれば全て相手のためでもありますし、組織のためであります。


最後に、ただ集団においてリーダーや上司は「いろんな結果」を評価してあげれば良いのです。


あくまで「結果」という名目で。









posted by orangeknight at 16:13

2014年05月17日

草抜きは大局観、内面そして愛社精神

この季節になるとよく草が生えます。

先週抜いたと思っていたらもう20センチくらいに復活しているなんてザラ、あのたくましい生命力には感心します。


先週、太子店のオープンイベントの時にうちのある店長と話をしたんですが、草が店舗や事務所のまわりに生えているところって非常に多いです。

私は性分なのかそれが気になってしょうがないんですが、あまりそれは気にならないものなんでしょうか。

端からみるととても流行っていそうな飲食店でも、往々にして草が生えているところがあります。

それも裏ならまだしも玄関周辺やアプローチのタイルの際にたっぷりと。


私はその店長に聞きました。

「店長や店の責任者の立場で、またその店の従業員は草は目に入らないものですか?」

彼は言いました。

「いつも同じ道を通って朝から晩まで店の中で働きますから外部に目が行かなくなるんでしょうね」

もう視界に入らなくなるのでしょうか。確かに、流行っている店は店の中の調度品等はきれいにされている。神経がそこに集まってしまうのか。


よくよく考えてみましたら、みているところが違うのかなというような話もしました。


私は学生の時アルバイトをしていました。

飲食店でも働かせていただきましたが、そういえば「今日はみんなでアイドルタイムに草を抜くぞ」と決められた時以外、草抜きなどしたことがないなと思いました。

ある回転すしでアルバイトをしていた時のことを思い出したんですが、いつもそんなことはその店の長老のパートのおばちゃんがしていた。

夕方に「おはようございます!」と店に行くとせっせせっせとそのおばちゃんは草を抜いていた。

私は挨拶すると仕事の持ち場につきやるべきことをこなしていた。

そして、今思うととても仕事を自分ができているように錯覚していた。

ホールをまわす。寿司を握る。シャリを炊く。お皿を洗う。レジを打つ。これらのことをしていましたが今思えばかなりの近視眼的思考に陥り、そんな自分がよく仕事をできていると自分で錯覚していた。

本当はよく仕事ができているのはそのおばちゃんで、年も50代後半でしたので動きは私のほうが早いですが、正確さは負けていますし、そのおばちゃんはもう10年以上いますので何でも知っている。そして何より「全体がみえていた」んです。

私はいわゆる「自分の仕事」に邁進していると感じ全体がみえておらず、いわば一兵隊です。

しかし、そのおばちゃんは店の流れを把握し、大局が読め、そして私を「魚住君は本当によくできる」と褒めてうまく使い、私はいわゆる「自分の仕事」のみに注力しているのに対し、長年の愛社精神などもともなって時間を創り「草を抜く」。

そこに私が「おはようございます!」と出勤してきて何食わぬ顔で勘違いしてレールを敷かれたところを動いているだけなのに、それを自分の仕事と錯覚し「自分はこの店で役にたっているな」と思い込む。いえ、そう思っていた。

本当にその店に必要なのはそのおばちゃんであり、私のかわりはどこにでもいる。

今思えばそれが紛れもない事実です。


草を抜くというところからえらく派生してしまいましたが、今は上から全体をみるから草がきになるし、みえるんでしょう。

そして、今、店や事務所のまわりに日常的に草が生えているようなところは絶対に長続きしないという考えに至っています。

それは、目先のことばかりにとらわれて全体がみえていないと感じるから。

また、格好ばかりつけて内面がともなっていないと感じるから。

そして、愛社精神が無いんだなと感じるからです。


今もまだまだ完全に荒削りですが、若いときは本当に…。恥ずかしくなると同時に、こんなに至ってなかったのにいろんな人によくしてもらいました。


基本や内面、そして掃除などがきちんとできているところは長く続けていけると思っています。











posted by orangeknight at 10:13
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