社長の日記「つみかさね」

社長の日記「つみかさね」
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2014年06月06日

信じる者は救われる

「信じる者は救われる」誰もが知っている言葉でしょう。

私はこの言葉を自分なりに解釈し、普段から特に人を信じるように心掛けています。

本来の意味はキリスト教の聖書にあり、たしか「イエスを神の子と信ずるものは天国にいける」というニュアンスだったと思います。

イエス・キリストを神様のたった一人の神の子だと信じることが、唯一我々普通の人間の救われる道であると、キリストへの崇拝を説いているのが聖書でしょうし、それが宗教であります。

その意味も十分分かりますし、私は宗教は哲学ではないかと考えているので理解できるんですが、私はこの言葉を拠り所にこういうふうに考えるようにしています。

それは、信じる者というのは自分自身の事で、他者を信じようと努力する者は、例えそれが間違いであってもその心があるから相手が心を開いてくれるんであり、結局相手を信じることが自分自身をよい方向に導いてくれるのではないか、というものです。

相手は疑われていると感じたら絶対に心は開きませんし、気持ちは高揚しない。

高揚しないどころかテンションは下がります。

例え、ウソをついている相手に対しても疑念をもって臨むんではなく、信じているよと臨まれると相手は「信じてもらっているからウソはやめよう」と考えると思います。

そういうふうに相手を変えられるのは信じてあげる時だけで、それが結局は自分に返ってくるので救われるのだ、と解釈しています。

偽りに対して偽りで臨んでも絶対に解決はしません。

偽りに対して正攻法で、またきれいな心で疑わず、信じて接することが大切。人を信じない人と信じて接する人とではそのつみかさねから得られる徳がかわると思っています。

相手を信じること、会社でいうなら上司や同僚、そして部下を信じてあげること、これこそが相手を変える最良の手段ではないでしょうか。

信じてもらっているから裏切れないことって人生でたくさんありますもんね。












posted by orangeknight at 21:41

2014年06月05日

照明の勉強をしてきました!

昨日は夕方から照明の勉強に大阪に行ってきました。

夢かなえる課の営業職とお客様相談室・夢かなえる支援室のみんなで、大光電機のライティング・コア大阪というショールームに行きました。

私は個人的に照明というものがなぜかとても好きなんです。

この職業についてからそう思い出しました、おもしろいものだなぁと。

照明器具やその配置、光の色や明るさでその空間の印象はガラッと変わります。

うちの従業員みんなにもっともっとそれに関心をもってもらい、よりお客様に喜んでいただけるご提案をできるようになってほしいし、そうならなければいけないというのが今回の趣旨です。

部屋の真ん中に普通にシーリングをつけて終わり、ではなく、配置や住んでおられるお客様の生活スタイルをお聞きして、より快適なReform のご提案をさせていただき、他社に差をつけ、その満足度の高まりがうちの受注額の単価アップになれば、それはお客様から合格点をいただけたという証だと考えます。
大光電機(DAIKO)というとパナソニックや東芝、KOIZUMI のように一般の方にはまだそんなに知名度は高くないかも知れませんが、そのバリエーションやラインナップは十分なもので、価格も非常に質は良いのに抑えられています。何よりカタログや社員の方から感じる会社の考え方がオレンジナイトと合う感じがするのでこれから力を入れていこうと思っています。


照明でこんなに部屋にお感じは変わるんですよ。

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みんな真剣に学んでいましたので、今日からのご提案に活かしていくと思います。

施工事例のコーナーにこれから照明も増えてくると思いますので、ぜひご覧下さいませ。


勉強になりました。バスまで出していただきありがとうございました。
















posted by orangeknight at 07:30

2014年06月04日

我慢と辛抱

我慢と辛抱というものは新入社員、いえ、新人や社歴の浅い人には絶対必要要件であります。

かくいう私も若いときはこれを理解しておりませんでした。

しかし、理解していないなりに我慢しましたし、辛抱しました。今現在は非常に大切な事であると認識していますし、それが心から理解できない人は一人で生きていかなければいけないと思います。

我慢と辛抱もその対なるものとバランスがとれていて、それをするから守られるという現象が生まれます。

強烈なパワーがあればそれも必要ないんでしょうし、力を備えることができたらそれをする必要がない。そういうものでしょう。

ただ、実際はそんなこともなく、世の中の本当に大人な人はその上でその気持ちを持ち続けているという事実もあると感じます。

それは守られるためではなく、利他の心で。


我慢と辛抱は同じではありません。同じようなニュアンスですが、違うものだと思っていますのでいつも「我慢と辛抱やで」と言っています。

新入社員として入ったらまず違う環境や違う習慣に戸惑いますし、いろんな事を教わり注意も受けます。

さまざまなことを言われますし、そこに疑問を感じることもあるでしょう。

しかし、そこに対し、疑問は普通に聞けばよいのですが、意見は必要ありません。

新入社員と意見交換しているんではないので「我」は要りません。これが我慢です。

我慢というのは自分の考えや意見を言う、すなわち自らというものを出すのを抑制することだと私は思っています。

最初はいろいろあるでしょうが、「能ある鷹は爪隠す」ということわざもありますが、そこをわきまえる人こそ頭角をあらわすのではないかと思います。

自分の我を外に出さないという力量、これが我慢です。


辛抱とは何かと言いますと、意見されたり叱れたり、例えば理不尽なことを言われても心の中で耐える、言うならば外に出すのではなく、心の内をそのままの状態に保つことであります。

どちらも耐えるというニュアンスなんですが、辛抱のほうは打たれるもの、サンドバッグをイメージしていただければ分かりやすいですし、踏んでもまたニョキっと伸びる雑草みたいなものなのです。

心にどれだけの拠り所や支えがあるかでこの耐性の要素を示す辛抱の強さはあきらかに差がでると思います。


我慢と辛抱とは私はそういうものではないかと考えています。

皆さんの今までの我慢と辛抱にもあてはまっているのではないでしょうか。


その先に、そこに耐えた先に見えてくる素敵なものってあるんですよね。














posted by orangeknight at 08:43
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