社長の日記「つみかさね」

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2014年04月23日

「夜は8時に全員が帰る」スタート

オレンジナイトは来月からまたいろいろな進化をとげます。

その一つが「夜は8時に全員が帰る」というもの。

その時間の帰宅は当たり前ではないか、というようなお声も聞こえてきそうですが、営業の世界では、またその中でも建築関係の営業の世界では夜の8時に帰宅というのは早いんです。

現在は10時、夜なので22時に閉めています。もちろんその時間前でも終礼が終われば自由に帰宅していいんですが、事務処理やお見積もり、お客様のおうちのプランなどを練っていると自然とすぐに時間が経ってしまいます。

今の「22時には全員が帰る」と決めるまでは最後の人が帰るのが日が変わるのは日常茶飯事でしたし、少なくとも僕にとっては普通でした。

僕が以前勤めていた会社でもそうでしたし、そこでは遅いときなどは夜中の1時に会議が始まっていましたし、僕も始めていました。笑

創業してからも、オレンジナイトの前身であるシカマ工務店時代、よそと同じようにやっていて新興の会社が生き残れるはずもないという考え方が根底にありましたし、無理していたのでもなく普通に遅くまでみんながみんな残っていました。感謝しています。

しかし、そういうふうな働き方も長期スパンではなかなか負担がかかるのと、一日の使い方をもっと密度の濃いものにしたら我々の仕事だと計算上22時には強制的に閉めてもいける、と判断し今に至っています。

そして、赤穂店で数ヶ月前からモデルケースとして試しているんですが、営業活動の手法を一部変更し、準備などの時間の負担を軽減させることにより売上を落とさず、あと2時間短縮できないかと20時に強制的に事務所を閉めることを導入してみましたところ赤穂店ではうまくいっています。

赤穂店の店長の東がよく会社の方針を理解し考えてくれ、他のみんながそれに躊躇無くのってくれているのが成功している要因の一つであり、無理もしてくれていると思いますがうまくいったので他の店、そして新店舗の太子店にも導入を決めました。


僕は大企業以外は労働時間、例えば8時間労働に固執していたらやっていけないと考えています。

少なくとも僕個人が他の方が一日8時間働くところを、朝の7時から夜の12時までの計17時間働いてきたことにより、単純に他の方の一年が僕にとっては二年分、ましてや休みなく働いたことにより他の方の一年は僕にとっては三倍の三年という認識でおりましたし、実力の無い僕が人一倍働くのは至極当然であると思っていましたし思っています。

しかし、オレンジナイトの目指す方向性を考えると、そのような一部の人たちにしか通用しないような働き方では大きくなれませんし、給与でもそうなんですが、全てにおいて成果重視一辺倒だと働く人が短期志向になってしまいます。

僕はこれからも勝負をかけますし、うちの人間にはこれからの人生の一部をもらおうと思っています。みんなの力が必要です。

そして、その中で毎日一緒に戦ってくれている会社のみんなが長くそして幸せに勤めてほしいと心から思っています。

そのためには朝一から全力で働き、昼の間に密度の濃い仕事をし、夜は遅くとも20時には会社を出て、家族サービスするも良し、遊びに行くも良し、本を読んだり、勉強したり、趣味をしたりいろんなことをする時間も持ち、健康にまた次の日朝から全力で働けるようにして、朝笑顔でおはようございますと出社できる環境を目指す。

女子社員が結婚しても普通にこれる会社、子どもがいても楽しくこれる会社、やはり、考え方をよく理解してくれ頑張ってくれる人間は結婚しても子育てしても僕は来てほしいし、そういう会社を目指したい。

また、今時結婚が全てではないですし、今時普通な女手一つで子どもを育てている人たちもいますし、これからいろんな人々が仲間に加わる。そういったみんなが自分の力で普通に生活できていく会社を創りたい。

オレンジナイトで働く人が考え方や会社の方針ではなく、労働条件によって続けるのが困難となりうる状況は打破したいと考えています。

今はまだまだ理想が多くをしめていますが、でも僕がまず想わないと絶対にそうはなりません。

しばらくしたら必ずそういう会社になっていると思いますし、そうしていきます。


まずはその序章として、帰宅が遅くなりがちな営業職や企画や管理的な部門も含め全てにおいて、来月から「夜は8時に全員が帰る」ことを始めます。

必ずこの課題は成功させます。オレンジナイトをそういう会社にもしたいんです。












posted by orangeknight at 19:28

2014年04月22日

現調に養父市に行く

兵庫県の北の方、養父市に行ってきました。

赤穂店、夢かなえる課の安井の担当させていただいているお客様のご紹介でした。

お客様からは「いつも安井さんがこまかいところまで気を配ってくれるから、知人にオレンジさんを紹介したいんやけど、何ぶん遠方なんでねぇ〜」との事で、今回エリア外なので僕とお客様相談室・夢かなえる支援室室長の原がお伺いさせていただきました。

赤穂のお客様もご一緒下さり、とてもありがたかったです。

内容はキッチンやリビングのReformです。
何かのご縁で兵庫県の北部までお伺いさせていただいけているわけですから、ぜひとも良いプランを考えお世話になりたいなと思います。

今も別件で朝来でReformをさせてもらっています。
養父ももっと遠いものかと思っていましたが、播但道もあるので意外と早く行けますし近く感じました。

たまにはちょっと遠くに行かせてもらうのも良いですね。


播但道からは噂の天空の城!?でしたか竹田城も見えました。僕が運転しましたので原に写真を撮ってもらいました。

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posted by orangeknight at 19:26

2014年04月21日

恩を返す人にならなければならない、まず僕が

会社のトイレに新撰組の近藤勇の処世訓を貼っています。

写真.JPG

ご存知の方もたくさんおられると思いますが「人の道」というやつです。

その最初の文言「忘れてならぬものは 恩義」というのがあります。

恩義、最近の日本はこんなことを言うと古いなあと言われるかも分かりませんが、恩を忘れる人が多い。いえ、恩というか義理を欠いたことを平気でする人が多い。と僕は思います。

人は相手へ与えたことは覚えているものですが、受けたことは忘れやすいものなのでしょう。

これは教育が悪いんだと思いますが、恩をあだでかえすようになってしまっては最悪です。

そういうことをする人が成功したということを聞いたこともないですし、実際成功を見たこともありません。

立派な人は技術面よりも精神面を重視していることは先人をみれば分かりますし、己の事のみを考えたら成功しません。

利己ではなく利他、これも多くの方が仰られますが全くその通りであると思います。


ここからが本題ですが、思えば僕自身も人生において若いときに恩を返していないことがあったなあ。

なぜ、あの時最後にあんな行動をとってしまったんだろう。

また、してもらった時は心から感動したはずなのに、それが当たり前になって、そして最後にもう一回会ってお礼を言わなければいけないようなこともあったのに、忙しいとか、また今度とか、何かと理由をつけて義理を欠いた行動をしたことがあります。

そういうのはずっと心に引っかかっています。

僕はもっと義理堅くなろうと思っています。

もっと恩を感じる人間になろうと思っています。

少なくともそういう人が増えていくとこの国がもっと良い国になる。

自分さえよければ、生きるためにはなんでもありという欧米的な発想の元ではこの国は先細る。


受けた恩のためなら死ぬことさえ覚悟するという価値観。


少し前になりますが、「永遠の0」という映画を観ました。

多くの方が本を読み、映画をご覧になられていると思います。

主人公の宮部は非常に優秀な航空兵、大東亜戦争においては、祖国に帰りを待つ妻と生まれたばかりの娘に「必ず帰ってくる」という言葉を残し、自分がいなくなればこの家族が不幸になる。絶対に生きて帰ることが自分の使命であるし、僕でもそうでしょうが「帰り、一緒に暮らしたい」と強く思っていた。

無駄な追撃や乱戦を避け、とにかく撃墜されないようしていたため、ときには臆病者とも称された。

戦闘中にはいくら優秀なパイロットであっても危険な状況には陥ります。

彼も何度も危険な目にはあっていましたが、その中で一度米軍の飛行機に後ろをとられたことがありました。

すでにロックオンされたような状況で絶体絶命のピンチでした。

そこに一機の零戦が横から突っ込んできて米軍の飛行機に体当たりしました。

米軍機は墜落、もちろん突っ込んだほうも墜落し、彼は大けがを負いました。

岡田准一扮する宮部は「なぜそんなことをしたんですか!」と瀕死の状況で搬送されるその子に泣きながら言っていました。

その彼は大石と言いました。宮部は飛行の教官もしていましたので大石は生徒でした。

戦況は刻々と悪くなり、日本はついに神風といわれた特別攻撃隊を組織し、学徒までかり出し、片道の燃料で無謀なる特攻作戦に打って出ました。

特攻は原則志願でしたが、みんな好き好んで死ににいったのではありません。

みんな生きたかっただろうに、みんな帰りたかったでしょうに、お国のために自分のことは後回しという価値観で動いた。

宮部の教え子も毎日のように散っていく。

やがて彼は憔悴していく。

生きてかえりたいという気持ちもそれが不可能かと感じてきたとき、どれだけ打ちひしがれるものなんでしょう。

そして、宮部も特攻に志願した。

どういう心中にあったのか、それはご覧になられた方それぞれが感じられたと思います。

宮部が特攻するその日、同じように大石の姿もあった。

宮部は大石に言った「大石君、今から乗る予定の僕の新型と君の旧型(零戦の)を変えてくれないか。僕が航空兵になって最初に乗ったのはその旧型だから、最後はそれでいきたいんだ」

大石は、腕の良い宮部がより性能の良い新型に乗るべきだと思い抵抗するが、宮部の「最後のお願いだ」という一言に押され了承する。

その後、二人は敵の空母めがけて飛び立つ。

しかし、大石の機からは煙が出てきた。みるみる速度が落ちていく。もはや特攻出来ない状況になったのです。

大石は近くの島に不時着、その後救助に遭い後に日本に帰還する。


優秀なパイロットであった宮部は自分の乗る予定だった機体の不調を見抜いていたのでした。

そこまで分かるならば、そのまま飛び立ち、作戦途中で大義名分の元、帰還することは想定されたはず。

宮部の最大の想いは、妻とまだ一度しか顔をみていないかわいいかわいい娘のために生きて帰ること、共に生活すること。

それよりも彼は、宮部は一度受けた恩を命と引き換えに返したんです。

そんなことができますか。僕ならどうでしょう…。


宮部は米軍の空母めがけて突っ込んでいきました。

その状況や想像できないものです。僕なら涙も止まらないくらいでるでしょうし、声もでます。叫びます。体も震えるでしょう。

それを回避することもできたのに、最大の自分の喜びも投げ出し、恩を返した。


その後、大石もその恩を一生かけて返したのはご存知の通りです。


今の日本には自分の事しかみえていない、みていない人が多い。利己なんです。

僕を含めてもっとたくさんの人がそんな気概をもてば、利他の気持ちをもてばもっと国は良くなる。


僕もたくさんの不義理をしてきたと思います。

しかし、もう36歳にもなれば分からねばならないと思っています。宮部は26歳で死んだんです。恥ずかしいと思います。

「忘れてならぬものは恩義」文言としては簡単ですが、僕は実践していきたいと思いますし、実践しないとこの日本をつくってくれた方々に申し訳ないと思います。


今日は恩ということを考えて書いていたら「永遠の0」の話になってしまいました。

長い文章、最後まで読んでいただきありがとうございました。

















posted by orangeknight at 19:33
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