2016年08月16日

当事者意識の無さから考える

当事者意識というものは、あればあるほど考えることが多く、なければないで何も考えなくてよいというものだと思います。

 
車を運転していると、車道と歩道を隔てている植木の周りにこの時期、ボサボサに伸びた草をあちこちで目にします。

 
市や県や国に依頼され、委託業者の方が真っ黒に日焼けして機械で刈ってくれています。

 
刈ってくれているこの行為がなければ、またタイミングが悪いと車道に大きく草は出てくることでしょう。

 
また、草が伸びすぎて向こう側が見えないなんてことにも多々起こることでしょう。

 
 
会社の前でも私の家の前でも、車道と歩道を隔てた植栽はきちんとメンテされます。

 
では、例えば市の誰かが見ていて「そろそろ伸びすぎだからどうにかしよう」と指示しているのか。はたまた「8月の2週目には姫路市飾磨区中島の歩道の草刈り」と決まっているのか。いずれにせよ、業者の方々は発注されたからしていると思います。

 
誰かが当事者であるからこの行為が実行されています。

 
当然私はノータッチ、心の中で「そろそろ刈ってほしいなぁ」と思うことはありますが、その数秒後には違うことを考えています。

 
当事者意識ゼロです。

 
誰かがやってくれる。

 
誰かがやってくれるだろう。市や県の方が手配してくれる、と思っているから具体的な行動にはうつさないし、数秒後には忘れている。

 
世の中全てこういう感じでありましょう。

 
しかし、そういう歩道の草を普段から抜いてくれている人もいる。立派です。そこには自分の利益などなく全て利他でしょう。

 
そうすると、当事者意識はあらゆることに対し持った方がステージの高い人間だと考えることに至ります。

 
 
今、自分の周りに普通に繰り返されている日常。これは誰かが当事者となっているから何もせずに暮らすことが、働くことができている。できていることだらけだと思えてきました。

 
周りを見渡すと感謝すべき人や物や組織って本当に多いなぁと思います。

 
 
この暑いなか草を刈ってくれている業者の方を見て思いました。

 
 
 
 
 
 
 
 
posted by orangeknight at 15:32
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