社長の日記「つみかさね」

社長の日記「つみかさね」

2014年10月23日

クレームとはなんぞや

ここしばらく「クレーム」という言葉や「クレーム処理」という単語に違和感を感じます。

この半年くらい、なぜクレームを従業員が恐れるのかということを考えていくうちに感じてきたことなんです。

それを顕著に感じたことがありました。

私自身が外出するときも行き先や内容を告知しているんですが、つい先日あるお客様から「ちょっとワシの思っていた範囲と違う」と床の張替えの際に、押入れの中も張り替えるか張り替えないかという私との見解の相違がありお電話をいただきました。

厳密には押入れの中は張替え、その横の地袋の下のことなんですが、私はここは張り替えると言った覚えもないですし、必要性を感じない。

お客様は押入れの中と同様に魚住がここも張り替えると言ったと仰る。

もちろん私は最初に大工の親方に「こことここと」と伝えているから、お客様が「あれっ!」となられ、大工に「ここは?」と尋ねると「ここは聞いていないよ」となり「なにー!ワシはここも張替えだと思っていた!」大工は「僕は聞いてないんやけど勝手にするわけにはいかないんや」と言うと当然「ちょっと会社に電話する!」というのが今回の大まかな流れです。

私は電話をいただいた。

私「いえ、そこは施工しない予定です」

お客様「えー、ワシはしてくれるんやと思っとった!」

としばらくあり、もちろんこんな時は「では、今から伺いますね」とお会いして話をしないと失礼なので現場には行くようにしています。

会社には「どこどこの〇〇様邸の〇〇な内容のクレームにいってきます」と報告し出かけます。

そこですごく感じたんです。

こんなものクレームではないと。

ちょっとお客様は興奮されて怒ってはおられるが、元来気は少し短めですがさっぱりした気持ちのよい方。

そもそも私は育ちが浜手でバリバリの播州弁の育ちなので、少々きつく言われても普通に感じます。

伺うと「ここも張替えるん違うんか!ワシはここもしてほしかったんや!」と仰る。

大工の親方に「ここは棚をはずさないと施工できませんが施工は可能ですか?」と聞くと「やれ言われたらなんでもやるでハッハッハ」と言うので「ではご主人様、ここで言った言わないの話をしてもしょうがないですから喜んでさせていただきます!」と言うと「笑、やってくれたらワシはええんや!」と喜んでいただけた。

これはクレームではないでしょう。

そもそもそうかと。

なんでもかんでもクレームという浅い、チープな単語を使っているばっかりに我々の感覚が何か冷たいというか、ややこしいことのような錯覚に陥り、クレーム=大変なこと、となってきているんではないかと考えるに至りました。

今回のようないわゆるクレームは「普通の話し合い」ですし、自分も営業マンなので想像はつきますが、いただくいわゆるクレームは大半がこの程度の「普通の話し合い」であります。

これを後回しや曖昧にしてしまうから「普通の話し合い」で済む事がどうしてくれるんだとか、お前では話にならんになっているんだと思います。


広辞苑で「クレーム」を引くと「売買契約で、違約があった場合、売り手に損害賠償を請求すること。異議、苦情、文句」とあります。

クレームという言葉の進化は最近の世相が反映されているようにも感じます。

工事をしていて途中にお客様からご意見をいただかないことはほとんどありません。

また、いただかないといけませんし、お互いに話をして工事中、また完成時に満足のいく状態を提供するのが我々の仕事であります。

こちら側の自己満足であってはいけませんし、お客様側も何でも言ったもん勝ちというような感覚では良いものは作れません。

一部に本当のクレーマーは存在しますが、大半は、99%のお客様は良い、気持ちのあるお客様です。

そこからいただく意見を我々は「クレーム」というつまらない言葉でひとくくりにしてよいものでしょうか。

また、いただいた想いを「クレームを処理する」というような冷たい感覚でこなしてよいものでしょうか。

と、現在私は考えます。

「いわゆるクレーム」をもっと違った感覚で全員がとらえたらもっと本当に優しい集団になれるのではないかと思います。

本当のクレームと、クレームとは言い難い普通の話し合いをもっと探求していきたいと思います。


「いわゆるクレーム」にオレンジナイト独自の言葉を考えよっかな。



















posted by orangeknight at 09:47

2014年10月22日

11月1日(土)はTOTO姫路ショールームでイベント

11月1日の土曜日、オレンジナイトでは初めてTOTOのショールームをかりてReform相談会をします。
姫路の市川インターのすぐ北にある、TOTO姫路ショールームです。

オレンジナイトは自前のショールームがあるので、そんなにメーカーの店をかりてイベントを行うことはなかったんですが、今回TOTOという強いブランド力を背景とした弊社の商品を提案するにあたり使わせてもらうことになりました。

トイレの便器を販売するとき、年配のお客様が非常に高い割合でTOTOが一番という潜在意識があるのを感じます。

私の年代ではLIXILでもパナソニックでも同じであろうという認識なんですが、そこは全然違います。

昔から変わらないブランドの信頼性や、公共施設などにしめる圧倒的なシェアがそういうものをつくりあげたのでしょう。

台湾に行ったとき台湾の人も言っていましたが、台湾や中国ではTOTOはメルセデスベンツとならぶ超一流ブランドとして確立しているらしいです。

いずれにしても、来月始めのイベントはオレンジナイトの第八期のそれこそスタートの日です。

また新しいオレンジナイトになれるよう完全に成功させたいなと思っています。

また告知致しますのでぜひお越しいただけると嬉しいです。











posted by orangeknight at 07:30

2014年10月21日

若い親はプレーヤーであれ

子どもの学歴を誇らしげに言う親がいます。

「うちの子はどこどこの私立の中学に通っている〜」

私も自分自身がそんな年になったのかと感じる反面、やはり子どもが頭がかしこいと嬉しいものなのかなとも思います。

生まれるときは誰もが「五体満足なら男でも女の子でも」と得てしてバカでもよいと思うのが親だと思いますが、健康に産まれたなら欲がでるのも普通なんでしょう。

ただ、あまりに息子や娘に入れ込んでいる親は私は美しくないと感じます。

「医者にしようと思うんや」

こんな言葉を聞きますが私は「あなたは何歳ですか」と思ってしまいます。

たかだか30代にして息子に人生をかけるお母さん、どれくらい本気で言っているのか知りませんがあなたが何かを残しなさいよと思います。

子どもと親は別人格。子どもがいくら立派に育とうとそれは親の影響は非常に大でしょうが親の人格や人生とはまた別物、すべからく本人のものであり、親は親で何かで結果を残すことに邁進し、人生を終える必要があると思いますがこれは私が変わっているんでしょうか。

子どもに道筋をたててあげるのと自分の人生を子どもにかぶすのは違う。

あなたがやりなさいよ。自身がこの世に残す成果の大小に値打ちがあるのではなく、自身が何かを子どもの代に残したという事に価値があるのではないか。

それは子どもを産んだというようなことではなく、個人個人が己の人生をかけ世の中に何かを残すことは人生のテーマではないかと思います。

子どもがかしこく、成績優秀で良い学校に進学するのはもちろん嬉しいことでしょうが、親は引退してはいけません。

プレーヤーでいなさいと、あなたが何かを残しなさい、その上で子どもを導いてあげるのが正しい姿ではないかと私は考えます。

30〜40代は子ども中心の生活になるのが多くみうけられる姿ですが、子どもに依存するのは違います。まだまだプレーヤーでいなければならない世代だと私は思います。










posted by orangeknight at 23:51
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